若い独身の料理人、鈴木拓也は毎日忙しい生活を送っていました。レストランで一日中立ちっぱなしの仕事をしている彼は、帰宅する頃には疲労困憊していることがほとんどでした。そんなある日、拓也は家にまっすぐ帰るのが嫌になり、気分転換に一人で近くのおでん屋台に立ち寄ることにしました。
屋台に入り、カウンター席に腰を下ろした拓也は、店主のおすすめのおでんとともに、見慣れない銘柄のお酒を注文しました。そのお酒は「夢見月」といい、香り高く、爽やかな後味が特徴でした。拓也はそのお酒の美味しさに感動し、「おいしそうだねぇ」と言いながら、ついついもう一杯と飲んでしまいました。
「こんなに美味しいお酒、初めて飲んだなあ。」拓也は思わず声に出してしまいました。
店主は微笑みながら、「夢見月は特別なお酒でね、ちょっと不思議な効果があるんだよ。」と意味深な言葉を残しましたが、拓也は深く考えずにお酒を楽しみました。
少ししかお酒を飲んでいないのに、その日は酔いが回り、思ったよりほろ酔い気分になってしまいました。屋台を後にした拓也は、ふわふわとした足取りで家に帰り、いつも通り自分の部屋で眠りにつきました。
翌朝、目を覚ますと、拓也は何か自分の部屋がいつもと違う気がしました。いつものベッド、いつもの棚があるのに、棚の中にある大量の本の中に見覚えのない本が一冊混ざっていました。
「こんな本、買った覚えないけど…」拓也は不思議に思いながらも、その本を手に取り、パラパラとページをめくりました。内容は普通の料理本のようでしたが、表紙には見たこともないタイトルが書かれていました。
さらに、洗濯物を見ても見覚えのない服がいくつかありました。
「こんな服、いつ買ったんだろう…?」拓也は首をかしげながら、キッチンに向かいました。
簡単な朝食を済ませた後、拓也は出勤の準備をし、レストランへ向かいました。道中でも、いつもの道、いつもの駅、いつもの電車が少し違う気がしました。
レストランに着くと、同僚の料理人が声をかけてきました。「おはよう、拓也。なんか今日はいつもと雰囲気違うな。」
「そうか?お前もなんかいつもと雰囲気違うような…違和感があるけど…」拓也は同僚の言葉に戸惑いながら答えました。
厨房に入ると、道具の配置や食材の置き場所が微妙に違っていて、拓也はますます違和感を覚えました。調理中も、普段通りの手順を踏んでいるつもりなのに、どこか噛み合わない感じが続きました。
その日の仕事が終わり、帰り道でも違和感が消えないまま、拓也は再びおでん屋台に立ち寄ることにしました。あの「夢見月」というお酒が、何か関係しているのではないかと思ったのです。
店に入ると、店主が拓也に気づき、にこやかに迎えました。「おや、昨日も来てくれたね。どうだった、夢見月は?」
拓也は思い切って尋ねました。「実は、昨日から何かおかしいんです。家も仕事もいつも通りなんですが、何かが少しずつ違う気がして…」
店主は少し驚いた表情を見せましたが、すぐに真剣な顔になりました。「それは…もしかすると、夢見月の影響かもしれないね。このお酒は特別で、飲んだ人を別の世界に連れて行くことがあるんだ。」
「別の世界…?」拓也は困惑しました。
「そう。似ているけど、少しずつ違う世界だ。そこではあなたの知っている人たちも、少しだけ違って見えるんだよ。」
拓也はその言葉に驚きと共に、妙な納得感を覚えました。「どうすれば元の世界に戻れるんですか?」
店主は優しく微笑んで言いました。「夢見月をもう一度飲むことだ。今度は少しだけ違う方法でね。」
店主の指示に従い、拓也は再び夢見月を飲みました。
そのあとは、美味しくおでんを食べて、ほろ酔い気分で家に帰りいつもと少し違う部屋のベッドで眠りについた。
目を開けると、拓也は再び自分の部屋にいました。いつものベッド、いつもの棚、そして棚の中には見慣れた本だけが並んでいました。洗濯物を見ても、見覚えのある服だけがありました。リビングに行くと、家の中もいつも通りでした。今度こそ、違和感はありませんでした。
その日から、拓也は普通の生活に戻りましたが、夢見月のことは忘れられませんでした。もう一つの世界での出来事は、彼にとって奇妙でありながらも、貴重な経験となりました。そして、時々思い出すその夜の出来事が、彼にとって一種の冒険のように感じられました。
結局、拓也は夢見月のことを誰にも話しませんでした。それは、彼だけの秘密として心の中にしまっておくことにしました。そして、あの屋台には二度と足を運びませんでした。夢見月はもう一度飲む勇気がなかったからです。
それからも拓也は日々の生活を送りながら、時折感じるデジャヴに微笑みを浮かべました。別の世界で過ごしたあの不思議な夜が、彼にとっての特別な思い出となったのです。
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