30代に入り、仕事も安定し、ようやく給料もそれなりに上がってきた俺は、ずっと住んでいたワンルームマンションから、もう少し広い部屋に引っ越すことにした。プライベートな時間も増やしたかったし、何より狭い部屋での生活に少し疲れていた。そんな中で見つけたのが、交通の便が良く、家賃も手頃な2LDKのアパートだった。
その物件は、駅から徒歩10分ほどの立地で、2LDKにしては異常に安い家賃だった。部屋も明るく、リフォームされて間もないらしく、内装は綺麗だった。「こんな条件が揃った物件が、この価格で手に入るなんてラッキーだな」と思い、即決で契約した。
引っ越し後の数週間は新しい生活を楽しんでいた。広いリビングでのんびりテレビを見たり、休日には自炊を始めたりと、快適な日々が続いていた。しかし、ある日を境に奇妙なことが起こり始めた。
それは、床に長い髪の毛が落ちていたことから始まった。俺は短髪で、もちろんそんな長い髪の毛が自分のものではない。最初は「前の住人のものでクリーニングが不十分だったのかな」と軽く考え、そのまま掃除機で吸い取った。
だが、それが一度だけでは終わらなかった。次の日も、その次の日も、部屋のあちこちで同じように長い髪の毛を見つけることが増えてきた。特に風呂場や洗面台の周りに目立つように落ちている。最初は気にしないようにしていたが、回数を重ねるごとに不気味さが増していく。
不安を感じた俺は、友人に相談してみたが、「前の住人の髪がまだ残ってるんだろう」と笑い飛ばされただけだった。確かに、理屈ではそう説明できるかもしれないが、清掃業者が入ったはずのリフォーム済みの部屋で、何度も同じような髪の毛が現れるのはおかしいと感じた。
やがて、髪の毛だけでなく、もっと不気味なことが起こり始めた。夜中、リビングでくつろいでいると、廊下の向こうからかすかに足音が聞こえるようになった。最初は気のせいかと思ったが、それが何度も続くようになると、背筋に冷たいものが走るようになった。
さらに、深夜に寝室で横になっていると、部屋の隅からじっと見つめられているような感覚が増してきた。ふと目を開けると、暗闇の中で何かが動いた気がしたが、ライトをつけると誰もいない。ゾっとしたのが、気配を感じたところに長い髪の毛が落ちていたからだ。
そのうち、髪の毛はさらに頻繁に現れるようになった。リビングや風呂場だけでなく、ベッドの上や、キッチンのカウンターにも落ちている。まるで誰かが家の中で活動しているかのように、あちこちに散らばっているのだ。
ある晩、シャワーを浴びていると、突然背後に冷たい風を感じた。振り返ると、浴室のドアが少し開いていた。確かに閉めたはずだと心臓が跳ねたが、無理やり気を落ち着けてシャワーを終わらせた。だが、浴室を出ると、鏡の端にくっきりと長い髪の毛が張り付いていた。心臓が早鐘を打つように高鳴り、「これは本当に何かがおかしい」と強く感じた。
そして、決定的な出来事が起こった。
ある夜、寝室で寝ようとしていたときのことだ。ふと目が覚めると、部屋の隅に黒い影が見えた。それはじっと動かず、俺を見つめているようだった。目を凝らして確認しようとすると、そこには長い髪を垂らした女性が立っていた。顔は暗くて見えなかったが、細長いシルエットが不自然なほどに薄暗い部屋に溶け込んでいた。
一瞬の出来事だったが、恐怖で身体が凍りついた。慌ててライトを点けると、当然のように何もいない。ただ、視線の感覚だけが残り、背後から誰かに見られているような気味の悪さが消えなかった。
その後、俺は急いで不動産屋に連絡し、部屋の過去について尋ねたが、特に事故物件ではないとの返答だった。しかし、前の住人が突然引っ越したという話を聞かされ、俺の不安はますます強まった。
次の日、俺は引っ越しを決意した。たとえ金銭的に負担が増えても、この部屋にはもう耐えられない。引っ越しの準備をしているとき、最後にベッドの下を確認したが、そこには大量の長い髪の毛が絡まっていた。まるでこの部屋に何かが「居ついている」証拠のようだった。
新しい部屋に移ってからは、奇妙な現象は一切起きなくなり、今では普通の生活に戻れている。しかし、時折ふとした瞬間に、あの長い髪の毛や、夜中に感じたあの視線が頭をよぎる。あの部屋には、俺には理解できない何かが確実に存在していたのだろう。
引っ越し後、あのアパートの近くを通ることがあるが、決して振り返ることはない。もし今も誰かが住んでいるのなら、その人は何を見ているのだろうかと思うと、寒気が止まらない。
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