その日、私はいつものように会社帰りにバスに乗り込んだ。仕事で遅くなり、すっかり日が沈んだ街並みが窓の外に広がっていた。車内は少しひんやりとしていて、乗客は私一人だけだった。
「こんな時間でも、もう少し人がいるはずなんだけど…」
普段なら、帰宅ラッシュもあって座席は埋まることが多いのに、今日は妙に静かで、少し落ち着かない気分だった。私は少し訝しみながらも、いつもの窓際の席に座り、スマホをいじりながらぼんやりと帰宅の時間を過ごしていた。
すると、次の停留所でバスが止まり、一人の男性が乗り込んできた。目に入ったその姿に、私は思わず息を飲んだ。
「健太…?」
乗り込んできたのは、私の大学時代からの親友である健太だった。彼は、長い間重い病にかかって入院しており、先日お見舞いに行った時も、ベッドに横たわり、顔色も悪く、辛そうな様子だった。
「え? 健太…元気そうじゃん!?」
彼はニコッと笑って、元気な声で答えた。
「ああ、やっと退院できたんだよ。今日はたまたまこっちに来てたんだ」
健太はそう言いながら、軽快にバスの奥の座席に腰を下ろした。私は彼が本当に元気そうな姿を目の前にして、何だか信じられない気持ちだった。入院中の健太は、医者から「治る見込みはない」と聞いていたし、先日会った時も、到底退院できるようには思えなかったからだ。
「本当に退院できたんだな? この間のお見舞いの時は、まだ辛そうだったのに」
「そうなんだよ。お見舞いに来てくれてありがとうな。でもな、奇跡みたいなもんさ。今はすっかり元気だよ。医者も驚いてたくらいさ」
彼は軽く笑いながら話してくれた。私は内心、不治の病だったはずの彼が元気に退院したという話に驚きを隠せなかったが、彼の笑顔を見ると、それ以上詳しく聞くのは失礼だと感じた。
「いやあ、それは本当に良かったな! またみんなで集まれるね」
私は、心の底から嬉しかった。大学時代の仲間たちとよく遊んでいた健太が、また元気に戻ってきてくれたことが、何よりも嬉しかった。
バスは静かに街を進んでいき、私たちはしばらくの間、昔話や近況報告をしながら笑い合っていた。健太はいつものように明るく、元気に話してくれていた。まるで、病気なんて嘘だったかのように。
やがて、私の降りる停留所が近づいてきた。
「じゃあ、俺ここで降りるわ」
そう言って席を立とうとした瞬間、健太が手を伸ばして、私を止めた。
「ちょっと待てよ。これ、渡しておきたいんだ」
そう言って、彼は小さな黒い箱を私に差し出した。
「何これ?」
「大したもんじゃないけど、俺からの記念だ。持っておいてくれよ」
不思議に思いながらも、私はその箱を受け取った。ずっしりとした重みがあって、中には何かが入っているようだったが、私はその場で開けることはせず、ただ健太にお礼を言った。
「ありがとう。大事にするよ」
「またな」
そう言って、私はバスを降りた。ドアが閉まり、バスはゆっくりと走り去っていく。その瞬間、ふとバスの窓越しに健太の顔が目に入った。
彼は笑顔で手を振っていた。しかし、その目には涙が浮かんでいた。
何かが引っかかった。さっきまで元気に話していたのに、なぜ泣いているのか? 胸の奥で不安がざわつき始めた。
私はスマホを取り出し、家に帰るまでの道を歩いていたその時、通知が一つ届いた。共通の友人からだった。
「今、連絡が届いたんだけど、健太が今日亡くなったって…。信じられないよ」
メッセージを読み終えた瞬間、全身が凍りつくような感覚に襲われた。頭が真っ白になり、心臓がドクドクと速く鳴り始めた。
「健太が…亡くなった?」
ついさっきまで、彼と話していたのに。笑顔で、元気に退院したと言っていた彼が。あり得ない。目の前で確かに彼と会話し、昔の思い出を語り合ったのは現実だったはずだ。
手にしていた小さな黒い箱が、急に重たく感じられた。恐る恐る、足を止めて箱のふたを開けてみた。
中には、小さな銀色のペンダントが入っていた。円形のデザインで、シンプルだがどこか温かみを感じさせるものだった。裏側には、刻まれた文字があった。
「ありがとう、またいつか」
その瞬間、涙が止めどなく溢れてきた。あのバスの中で健太が見せた笑顔、そしてその目に浮かんでいた涙が、全ての意味を持って私の胸に突き刺さる。
彼は、きっと最後に私に別れを告げに来たのだ。元気になった姿で、再会できたのは彼の優しさだったのだろう。あのバスの中で、彼は何かを伝えたかったのだ。それが、ペンダントの「またいつか」という言葉に込められていたのだ。
「健太…」
声にならない思いで、私はそのペンダントを握りしめた。彼はもうこの世にいないが、彼との思い出と、この最後の贈り物は、私の心にずっと残り続けるだろう。
バスの窓越しに見た、あの最後の笑顔と涙を思い出しながら、私は一人、静かに帰路についた。
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