それは、友人のタケルに誘われて、ある山奥の湖で夜釣りをした時の話だ。タケルは釣りが趣味で、「夜の方が大物が釣れるから」と無理やり私を連れ出した。
その湖は昼間でも人が少なく、夜になるとほとんど誰も来ない場所だった。タケルは「静かでいい場所だ」と喜んでいたが、私にはどうしても、湖全体に漂う異様な静けさが気になって仕方がなかった。
夜9時過ぎ、私たちは釣り竿と懐中電灯を手に、湖に設置された古い桟橋に腰を下ろした。風はなく、湖面は鏡のように静かだった。周囲には釣り人の姿もなく、ただ水面がわずかに揺れる音が耳に残っている。
「この静けさがいいんだよ。魚も油断して釣れやすいからさ」
タケルがそう言って笑うが、私はどうしても何かがおかしいと感じていた。まるで湖が、私たちを拒んでいるような感覚――。
糸を垂らし、湖面をぼんやりと見つめていると、突然、湖の奥からボチャッという音が聞こえた。
「おい、今の音、聞いたか?」
「誰か別の釣り人でもいるんじゃないか?」
タケルはそう言って気にしなかったが、私は湖の向こう側に視線を送った。すると――暗い水面に何かが浮かんでいるのが見えた。
それは、人間のような黒い影だった。
「おい、タケル。あれ、見えるか?」
私が指を差すと、タケルも不安そうにその方向を見た。
「……何だ、あれ。人か……?」
影は、ゆっくりと湖の真ん中あたりを漂いながら、少しずつこちらに近づいてくるように見えた。
「……おい、ヤバいんじゃないか? 溺れた人かも」
タケルがそう言いながら立ち上がり、ライトを向けた。だが、光を当てても、影ははっきりと見えないままだ。
その時――ザブン!という音と共に、その影が突然水中に沈んだ。
「えっ、今の見たか!?」
私たちは一瞬、言葉を失った。まるで意図的に姿を消したように、その影は湖の中に吸い込まれていったのだ。湖の水面は再び静かに戻り、そこにはもう何も残っていなかった。
「……気のせいじゃないよな?」
私たちは無言のまま釣りを続けようとしたが、どうにも集中できなかった。不気味な空気が漂い、何かが起きそうな予感がして仕方がない。
しばらくして――
「おい、なんか引っかかった!」
タケルの釣り竿が大きくしなり、水面が激しく揺れた。
「これは大物だぞ!」
タケルが必死に糸を巻くが、竿の重みが尋常ではなかった。まるで何か巨大なものが湖底から引っ張っているような感じだった。
「……これ、魚じゃない……」
タケルがそう呟いた瞬間、私は水面に浮かんできたものを見て凍りついた。
それは、人の手だった。
水中から、白く膨れた腕がゆっくりと水面に現れ、まるでタケルの釣り糸に絡みつくように動いていた。
「ヤバい!離せ!!」
タケルは慌てて竿を放り投げた。だが、その手は竿の先に絡みついたまま、ゆっくりと沈んでいった。
二人で息を整え、何とか冷静を保とうとしたが、その時――
「……見てる……」
どこからともなく、かすかな囁き声が聞こえた。私たちは顔を見合わせ、足早に桟橋を離れ、車に乗り込んだ。
車を走らせながら、タケルがポツリと言った。
「……なあ、さっきのって何だったんだろうな。人なのか……それとも……」
私も答えられなかった。ただ、あの白い手が竿に絡まる様子が、何度も頭の中に浮かんで消えない。
「二度とあそこには行かない……」
そう誓ったが、帰宅後、私たちに奇妙なことが起きた。
翌日、タケルから電話があった。彼が言うには、釣り竿を道具置き場に戻したはずなのに、朝起きると、その竿が濡れたまま玄関に置かれていたというのだ。
「お前、ふざけて置きに来たんだろ?」
「いや、俺じゃない!」
私はそんなことをするはずがなかった。
そして――その夜、寝ようとして目を閉じた瞬間、耳元でかすかにあの声が聞こえた。
「……見てる……」
あの湖に何かが潜んでいるのは間違いない。私は二度と夜釣りには行かないと決めたが、今でも、夜になると耳の奥であの囁き声が聞こえるような気がする。
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