それは、友人たちと出かけた温泉旅館での出来事だった。山奥にあるその旅館は、昔からの趣を残した古い和風建築で、雰囲気が抜群に良かった。しかし、その夜、私たちがそこで体験したことは、今でも忘れられない。
チェックインを済ませた後、私たちは一度部屋に荷物を置き、館内を探索することにした。廊下は木造で、歩くたびにギシッ、ギシッと床が軋む音がする。壁には古びた絵画や書が掛けられていて、昭和の雰囲気をそのまま残していた。
旅館はそれなりに広かったが、客室の多くは空いているらしく、私たちのほかにほとんど宿泊客はいないようだった。薄暗い廊下を歩いていると、少し不気味に感じたが、「人が少ないから静かなんだろう」と自分に言い聞かせた。
夕食後、私たちは部屋に戻り、深夜にもう一度温泉に入りに行こうという話になった。時刻は夜の11時を過ぎ、館内の明かりは少なくなっていた。
「他の客ももう寝てるだろうな」
そう話しながら、私たちは温泉へ向かうことにした。
温泉への道は、長い廊下を渡っていかなければならなかった。左右には客室が並んでいるが、どれも電気が消えており、人の気配はない。
ふと、私は廊下の先にある一部屋だけ、障子越しに淡い光が漏れているのに気がついた。
「あの部屋、まだ誰か起きてるのかな?」
特に気にすることもなく、私たちは温泉に向かった。夜の風呂は貸し切り状態で、私たちはリラックスし、すっかり時間を忘れてしまった。
風呂を上がり、再び廊下を通って部屋に戻ろうとした時――
「……ん?」
さっき、光が漏れていた部屋が気になった。廊下の他の部屋はどれも暗いのに、そこだけ障子の向こうに明かりが灯っている。私は好奇心に駆られて、そっとその部屋の障子に近づいた。
「誰か起きてるのか……?」
障子の隙間から部屋の中を覗き込むと――
そこには人がいた。
部屋の中央に、白い着物を着た複数人の男女が、じっと正座していた。皆、顔は俯き、動く気配がない。まるで、何かの儀式を待っているかのような不気味な静けさだった。
「……なに、あれ……?」
私は思わず息を呑んだ。どう見ても普通の宿泊客には見えなかった。だが、それ以上におかしかったのは――
彼らの中にいた一人の女性が、ゆっくりと顔を上げ、私の方をじっと見つめていたことだ。
「おい、何してんだ?」
友人の声に我に返り、私は慌ててその場から離れた。
「いや……あの部屋、何か変なんだよ……」
「え? どこだよ?」
友人と一緒にもう一度その部屋の前に戻ったが――障子の向こうは真っ暗だった。
さっき見た光も、人の姿も、何もかも消えている。まるで最初から何もなかったかのように、ただの空室だった。
「お前、疲れてんじゃないのか?」
友人はそう言って笑ったが、私はあの視線が忘れられなかった。あの白い着物を着た女性が、あの時確かに私をじっと見ていた。
部屋に戻ってからも、どうしてもその光景が頭から離れなかった。あの儀式のような雰囲気――そして、その中にいた彼女の無表情な顔。
その夜、私は眠りが浅く、何度も目が覚めた。
深夜2時頃、ふと目を覚ますと――廊下の向こうから、何かが近づいてくる音が聞こえた。
ギシ…ギシ……
木の床が軋む音。何かが私たちの部屋に向かってゆっくりと歩いてくる。
「……誰かいるのか?」
私は布団の中で固まったまま、音に耳を澄ました。
ギシ…ギシ…ピタッ……
そして、その音は――部屋の前で止まった。
しばらくの間、何も音がしなかった。だが、私には分かった。障子の向こうに、誰かが立っているのだと。
次の瞬間――
スーッ……
障子がわずかに開き、白い指先が見えた。
私は恐怖で息をすることもできず、ただ目を閉じて震えていた。
その夜、何が起きたのかは、結局思い出すことができない。ただ、翌朝になり、わかったことが一つある。
あの時、私が見た部屋――昨夜、光が漏れていたあの部屋に、宿泊者はいなかったということだ。
「その部屋、誰も泊まってなかったってさ」
旅館のスタッフに確認した友人の言葉に、私は全身の血が凍るのを感じた。
あの夜、私が見たのは一体――誰だったのだろうか。今でも、その答えは分からない。ただ、一つだけ言えるのは――
あの白い着物の女性は、今でもどこかで私を見ているのではないかということだ。
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