その日は、日々の疲れを癒すため、一人旅に出て古い温泉旅館に泊まった。長年続く老舗の旅館ということで、趣のある佇まいと静かな山間の空気が心を落ち着かせてくれる。夕飯も美味しく、温泉も気持ちがよくて、旅の疲れがじんわりと解けていくようだった。
部屋に戻り、心地よい布団に包まれながら、あっという間に眠りについた。
ふと目が覚めたのは、深夜だった。周りはしんと静まり返り、窓の外からは虫の声さえ聞こえない。枕元の時計を見ると、時刻は深夜2時を指している。
「……なんか、また温泉に入りたいな」
寝ぼけたままそう思った私は、再び温泉に浸かる誘惑に逆らえず、浴衣を羽織って部屋を出た。静かな廊下を歩き、足音を響かせないように温泉へ向かう。
温泉は、この時間だと貸し切り状態だろうと期待していた。暖簾をくぐり、大きな内風呂の湯気がもやっと広がる中、脱衣所で浴衣を脱ぎ、ゆっくりと湯に浸かった。
「はぁ…やっぱり気持ちいい」
私は湯船の端に腰を落ち着け、ぼんやりと湯気の向こうを眺めた。広いお風呂に一人きりだと思っていたが、ふと視界の隅にもう一人、人がいることに気づいた。
「誰か…入ってたんだ」
相手はお湯に深く体を沈め、湯気に包まれているので、はっきりと顔は見えない。見知らぬ人と同じお湯に入ることに少しの気恥ずかしさを覚えつつも、特に気にすることなく湯に浸かり続けた。
しかし――妙に違和感がある。相手の動きが異様に少ないのだ。湯船に入っているというより、まるで人形のようにじっと座っている。その姿が湯気の中でぼんやり浮かび上がり、何とも言えない不気味さが胸を締め付ける。
「……気のせいかな?」
私は気のせいだと思おうとし、体を軽く流してお風呂を出ることにした。脱衣所で体を拭き、浴衣を着直す。振り返って湯船を一瞥したが、その人は動く気配もなく、同じ姿勢で湯に沈んでいた。
温泉から上がり、廊下を歩いて部屋に戻る途中、大広間の前を通りかかった時のことだった。ふすまが少しだけ開いていて、中の様子が覗けた。
「……宴会?・・・こんな深夜に?」
大広間では、数十人の客たちが楽しげに宴会をしているようだった。みな楽しげに語り合い、笑い声を響かせている。しかし、その瞬間、私の中に冷たい違和感が広がった。
「何か…変だ…」
彼らは何かを話しているが、耳に入ってくる言葉はまるで意味を成していなかった。会話のリズムは人間のものに似ているが、発せられているのは言葉ではない。ただの音の羅列――まるで言葉の使い方を知らない誰かが会話を真似しているかのような奇妙な音だった。
「……!」
私は息を呑んだ。宴会場の人々が全員、人間似たもののように見えたのだ。人間のようで人間ではないもの。
彼らは、無理やり笑顔を作ったような顔で笑い、焦点の合わないガラス玉のような目でお互いを見つめ合っている。目は笑っておらず、口元だけが引きつったように動いている。何も知らない人が見れば賑やかな宴会に見えるかもしれないが、私にはその光景が異常に見えた。
私は恐怖を感じながら、大広間の横を足早に通り抜けた。冷や汗が背中を伝い、鼓動が早くなる。早く自分の部屋に戻りたい――その一心で廊下を進む。
すると、大広間の奥から一人の従業員が料理を運んでくるのが見えた。私は安堵の気持ちで立ち止まり、その従業員に軽く会釈をした。
だが、次の瞬間――私は全身に寒気が走った。
その従業員も「偽りの人間」だった。
無機質なガラス玉のような目で、無表情のまま私を見つめ、口元には引きつった笑みが貼り付いている。皿の上の料理を運びながら、まるで操られた人形のようにぎこちない足取りで宴会場へと向かっていく。
「……!」
全身が硬直し、私はその場に崩れるように尻もちをついた。足が震え、呼吸が乱れる。目の前に広がる異常な光景に、私は何もできずただ震えるだけだった。
その時――
「こんなところに紛れ込んでしまったのか…」
背後から、静かな声が聞こえた。振り向くと、そこには制服を着た警察官のような男性が立っていた。だが、その姿はどこか警備員にも見える、不思議な佇まいだった。
彼は私をじっと見つめ、ため息をつきながら、優しく言った。
「もう、ここには来ちゃダメだよ。」
その言葉を聞いた瞬間、私はふっと意識が遠のいた。そして、次に目を開けた時――私は部屋の布団の上で寝ていた。
「……夢?」
私は頭を起こし、周りを見回した。薄暗い部屋の中、窓の外にはまだ夜の闇が広がっている。枕元の時計を見ると、時刻は深夜2時を指していた。
「さっきの…全部夢だったのか…?」
だが、あまりにもリアルな感覚が残っている。温泉の湯の温かさ、宴会場での奇妙な会話、偽りの人間たちの笑顔――すべてが現実のように鮮明だった。
「……」
私は怖さと不安を抱えながら、布団に潜り込んだ。あの不気味な人々と宴会の光景が、まるで現実だったかのように頭から離れない。
「夢だよな…ただの夢だよな…?」
そう自分に言い聞かせながらも、心の奥底では、あれが夢ではないのかもしれないという不安が、いつまでも消えなかった。
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