その日はどうしても片付けないといけない仕事があり、僕は深夜までオフィスに残っていた。周囲はすでに帰宅し、広いフロアには僕一人だけ。キーボードを叩く音とエアコンの微かな風の音が、静寂の中で不気味に響いていた。時計を見ると、午前2時を回っている。
「もう少しで終わる……」
そう自分に言い聞かせ、パソコンに向かって作業を続けていたときだった。
プルルルルル……
突然、社内電話が鳴り響いた。
「こんな時間に……?」
社内電話は基本的に内線専用で、深夜に鳴ることなどまずない。誰もいるはずがない時間帯だ。不気味な気持ちを抑えながら、僕は受話器を取った。
「……もしもし?」
しかし、返答はなく、ノイズ混じりの静寂が続くだけだった。
「もしもし……誰かいますか?」
その瞬間、受話器の向こうから、かすかな囁き声が聞こえてきた。
「……まだ……帰れない……」
掠れた声が微かに響いたかと思うと、電話はブツッと切れてしまった。
嫌な汗が背中に滲むのを感じながら、僕はしばらくその場に立ち尽くしていた。電話回線のトラブルだろうか。あるいは、誰かのいたずらだろうか。しかし、その声はあまりにもリアルで、どこか哀しげな響きがあった。
「……気のせいだ、もう終わらせて帰ろう」
そう自分に言い聞かせ、作業を再開しようとしたとき――。
プルルルルル……
またしても電話が鳴った。今度はさっきよりも高く鋭い音に感じられた。心臓が早鐘のように脈打つのを感じながら、僕は震える手で再び受話器を取った。
「……もしもし?」
「……早く帰れ……」
今度は先ほどよりもはっきりとした声で、そう告げられた。声の主が誰なのかは分からない。ただ、その声はどこか怒りと悲しみが混ざったような感情を帯びていた。
「誰なんですか!? いたずらならやめてください!」
僕が怒鳴ると、電話の向こうで、カタカタと何かが揺れる音がした。まるで誰かがオフィスの中で、僕を見ているかのような気配が伝わってくる。
恐怖に駆られ、僕は作業を中断して帰る準備を始めた。カバンを掴み、エレベーターのボタンを押す。すると――背後のフロアの暗がりから、カタ……カタ……とデスクが揺れるような音が聞こえてきた。
「……誰か、いるのか?」
振り返ったが、もちろん誰もいない。
ようやくエレベーターが到着し、僕は飛び乗った。閉まるドアの隙間から、誰もいないはずのフロアの奥で――受話器がゆっくりと上がるのが見えた。
エレベーターが1階に着き、僕は全力でオフィスビルから駆け出した。夜風に当たってようやく少し落ち着きを取り戻し、背後のビルを見上げる。
そこには真っ暗な窓がいくつも並んでいたが――そのうちの一つ、僕がいたフロアの窓に、誰かが立ってこちらを見下ろしているのが見えた。
その姿を見た瞬間、血の気が引いた。
その影は、僕が一人で作業していたはずの自分の席に立っていた。
翌日、会社に出社すると、同僚の一人が言った。
「……あそこのフロア、昔深夜まで残業していた社員が亡くなったらしいよ。過労で倒れて、そのまま……」
僕は背筋に冷たいものが走った。あの電話の声は――本当に誰かのいたずらだったのだろうか?
それ以来、僕は深夜残業をしないと心に決めた。
それでも、あのフロアを通るたびに耳の奥で響く気がする。
「……早く帰れ……」
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