その日、私はいつも以上に残業が長引き、駅前のバス停にたどり着いたのは深夜だった。疲労で体は重く、冷たい夜風が肌にしみる。普段ならこの時間でも数人の同じ顔ぶれがバスを待っているものだが、その日は奇妙なほどに誰もいなかった。
「今日は誰もいないのか…珍しいな」
薄暗い街灯の下、バスを待つ間の孤独感がやけに胸に刺さった。しばらくして、バスが到着するライトが見えた。いつも通りのバスが停車し、ドアが開く音が静かな夜に響く。運転手に軽く会釈をして乗り込み、空いている座席に腰を下ろした。
車内には私しかいない。深夜だから珍しいことではないはずなのに、なぜかその静けさが不安を呼び起こした。
バスが動き出し、規則正しい揺れが疲れた体を包み込む。私は目を閉じ、うとうととまどろみ始めた。仕事のストレスも重なり、気づけば深い眠りに落ちていた。
次に目が覚めたのは、バスが急に揺れた瞬間だった。周囲を見渡すと、バスは薄暗いトンネルを走っていた。
「トンネル？ こんな道通ったことあったか？」
違和感が募る。いつも利用する路線で、トンネルなど一度も通ったことがない。眠気が一気に吹き飛び、私は窓の外を注視した。しかし、トンネルの壁が延々と続くばかりで、出口が見えない。
やがてトンネルを抜けると――そこは見たこともない街だった。
外の景色は住宅街のようだが、どこか奇妙だった。家々の形は歪み、屋根や窓がねじれているように見える。まるで、誰かが家を粘土細工のように雑に形作ったかのようだった。しかも、街灯は薄暗く、人の気配は全くない。
「なんだ…ここ…？」
恐怖が胸を締め付ける。私はいてもたってもいられず、運転席の運転手に確認しに行こうと席を立った。
運転席に向かい、私は運転手に声をかけた。
「あの、ここどこですか？ このバス、いつものルートじゃないですよね？」
運転手は無言のままハンドルを握り、こちらを振り向くことなく前を見ている。その背中にぞっとする違和感を覚えた。さらに声をかけようとした瞬間、運転手がゆっくりと首を回した。
その顔を見た瞬間、全身が凍りついた。
運転手の顔は、まさに「偽りの人間」そのものだった。焦点の合わないガラス玉のような目、引きつったような不自然な笑顔――その表情には生気がまるで感じられなかった。
「……ッ！」
後退りしそうになる足を抑え、私は何とか言葉を絞り出そうとした。しかし、その時――
「ここに紛れ込んでしまったのか…」
背後から静かな声が響いた。驚きのあまり振り向くと、そこには制服を着た警察官のような、しかし警備員にも見える男性が立っていた。彼の表情だけは穏やかで、どこか安心感を与えるものだった。
彼は私をじっと見つめ、ため息をつきながら言った。
「もう、ここには来ちゃダメだよ。」
その声は優しかったが、同時にどこか強い力を帯びていた。その言葉を聞いた瞬間、周囲がふっと暗転し、意識が遠のいていった。
気がつくと、私は最寄り駅のバス停に立っていた。あたりは静まり返っており、街灯の光がいつもと変わらない夜の風景を照らしている。手元の時計を見ると、時刻は最終便が着くよりもかなり前の時間だった。
「どういうことだ…？ さっきのは…」
まるで悪夢を見ていたような感覚だったが、すべてが鮮明に脳裏に焼き付いている。偽りの街、偽りの人間、そしてあの警備員のような男の言葉――それらが現実の記憶のように心に残っている。
恐怖と安堵が入り混じった複雑な感情の中、私はバス停を後にして、静かな夜道を歩き始めた。だが、どこかで再びあの街に足を踏み入れてしまうのではないかという不安が、いつまでも心から離れなかった。
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