都会の喧騒と忙しさから逃れ、友人と共に田舎の温泉旅館へと旅立つことにしました。旅の計画を立てたのは久しぶりの休暇を楽しむためであり、日々のストレスから解放され、心身を癒す目的がありました。インターネットで調べて見つけたのは、日本の深い山奥にある「雪見の湯」という名の古風な温泉旅館でした。口コミでは「静かな環境」「美しい自然」「心温まるサービス」など、好意的な評価が多く見られ、私たちは期待を胸に旅の準備を整えました。
旅館に向かう道中、車窓から見える景色は徐々に変わり、都会の喧騒から遠ざかるにつれて自然の美しさが広がっていきました。山々が連なり、緑豊かな木々が風に揺れる姿は、まるで別世界に足を踏み入れたかのようでした。やがて、車が進むにつれて雪がちらつき始め、山道は次第に白銀の世界へと変わっていきました。
「雪見の湯」に到着したのは夕方近くでした。雪がしんしんと降り積もり、一面の銀世界が広がっています。古風な佇まいの旅館はまるで時間が止まったかのようで、どこか懐かしさを感じさせるものでした。旅館の入口に立つと、木製の大きな門が出迎えてくれ、その先には美しい日本庭園が広がっています。
私たちは玄関で靴を脱ぎ、畳の香りが漂うロビーに足を踏み入れました。迎えてくれたのは笑顔の素敵な女将さんで、彼女の丁寧な案内に従い、私たちはチェックインを済ませました。古い建具や飾られた掛け軸、和風の灯籠が目に入り、そのどれもが旅館の長い歴史を物語っているかのようでした。
部屋は広く、和室の畳の上に綺麗に敷かれた布団が二組。窓からは雪景色が一望でき、温泉旅行の醍醐味を存分に味わえる場所でした。荷物を置き、一息ついてから早速温泉に向かうことにしました。露天風呂は風情があり、雪の降る中で浸かる温泉はまさに至福のひとときでした。
夜が更け、部屋に戻って夕食を楽しみました。地元の食材を使った料理はどれも美味しく、特に鍋料理は体を芯から温めてくれました。食後、しばらく友人と談笑しながら時間を過ごし、夜も更けてきたので布団に入ることにしました。
その夜、ふと目が覚めました。時刻は真夜中、旅館の中は静寂に包まれています。部屋の中は暖房が効いているにも関わらず、どこか冷え冷えとした感じがしました。友人は隣で寝息を立てており、特に異常はありません。しかし、どうしても眠れない不安感が胸に広がります。
その時です。廊下から何か音が聞こえてきました。最初は風の音かと思いましたが、どうも違う。よく耳を澄ますと、何かが這いずり回るような音でした。まるで何かがゆっくりと部屋に近づいてくるかのように。
私は布団の中で身動きせず、その音を聞いていました。心臓の鼓動がどんどん早くなり、冷や汗が滲んできます。やがて音が部屋の前で止まり、しばらくの静寂の後、襖が少しずつ開く音がしました。
「誰かいるのか…？」
声をかけようとしましたが、声が出ません。ただ恐怖に怯え、襖の方を見つめるだけでした。襖が完全に開かれると、そこには黒い影が立っていました。人の形をしているものの、その顔ははっきりと見えず、ただ闇のような存在感だけが感じられました。
影は部屋の中に入り、私たちの布団の方に近づいてきます。私は完全に恐怖に凍りつき、動くこともできませんでした。影が私の布団の前に立ち止まり、そのままじっと見下ろしているようでした。私はその視線を感じながら、ただ祈るように目を閉じました。
次の瞬間、影はふっと消えました。まるでそこに何もいなかったかのように。しかし、私の中にはまだその恐怖が残っていました。襖は開け放たれたままで、冷たい風が部屋に吹き込んでいました。私はそのまま動けず、朝までずっと目を閉じたまま過ごしました。
朝、友人が起きてきて、私の顔を見て驚きました。夜の出来事を話すと、友人も驚きつつも信じてくれました。女将さんに事情を話すと、彼女は何かを知っているような表情を見せましたが、何も言いませんでした。ただ、「ここは古い旅館ですから、いろいろなことがあります」とだけ。
その日、私たちは早々にチェックアウトしました。帰り道、ふと旅館を振り返ると、雪の中に佇むその姿は依然として美しいものでした。しかし、私の心には一生消えない恐怖の記憶が刻まれました。田舎の温泉旅館での恐ろしい体験は、まるで異界からの訪問者がもたらした悪夢のように、今でも私の記憶に鮮やかに残っています。
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