田中健一は、都内の中堅企業で働く30代半ばの会社員だった。彼は優秀な社員であり、その能力と勤勉さで上司からの信頼も厚かったが、その分、彼の仕事量も多かった。今日もまた、深夜までオフィスに残り、締め切りに追われる仕事を片付けていた。
オフィスビルの最上階にある彼の職場は、すでに人影もまばらで、健一のデスクだけが明るく照らされていた。彼はデスクライトの下で資料に目を通し、パソコンのキーボードを叩いていた。静まり返ったオフィスの中、彼のキーボードの音だけが響いていた。
時計の針が午前1時を指す頃、健一はふと異様な感覚に襲われた。背筋に冷たいものが走り、誰かに見られているような気配を感じたのだ。彼はその感覚を振り払おうと首を振り、再び仕事に集中しようとしたが、どうしても気になって仕方がなかった。
「誰かいるのか…?」
健一は自分に言い聞かせるように小声でつぶやいたが、返事はない。ただ、オフィスの隅で何かが動くような気配を感じた。彼は椅子から立ち上がり、周囲を見渡した。薄暗いオフィスの中、誰もいないはずの場所から微かな影が動くのが見えた気がした。
「気のせいだ…ただの疲れだ…」
健一はそう自分に言い聞かせ、再びデスクに戻った。だが、再び資料に目を通そうとした瞬間、今度は明らかに聞こえる囁き声が耳に届いた。
「助けて…」
健一は一瞬、心臓が止まりそうなほど驚いた。彼はその声がどこから聞こえたのかを探ろうとしたが、オフィスは静まり返っていた。声の主が誰なのか、どこにいるのか、全く分からなかった。
「誰かいるのか!?冗談はやめてくれ!」
健一は声を張り上げたが、返事はなかった。ただ、オフィスの奥から何かが動く音が聞こえた。彼は恐る恐るその方向へ足を向けた。すると、廊下の突き当たりにある倉庫の扉がわずかに開いているのを見つけた。
「ここに何かが…」
健一は心の中で呟きながら、倉庫の扉に手をかけた。扉を開けると、そこには誰もいないはずの倉庫が広がっていた。彼は一歩一歩、倉庫の中を進んでいった。突然、彼の足元に何かが落ちてきた。見ると、それは古びた書類の束だった。
「何だこれは…?」
健一は書類を拾い上げ、その内容を確認した。そこには、このビルの過去の出来事が記されていた。数年前、このビルの工事中に作業員が事故で亡くなったことが書かれていた。健一は背筋に寒気を感じ、急いで倉庫を出ようとした。
しかし、その瞬間、倉庫の扉が閉まった。彼は扉を開けようとしたが、開かない。パニックに陥りかけたその時、再び囁き声が聞こえた。
「助けて…ここから出して…」
健一はその声の方向を振り返ったが、何も見えなかった。だが、次第に声が大きくなり、彼の周りに無数の影が現れ始めた。影は形を持たず、ただ闇の中に揺れ動いていた。
「誰なんだ!?何を求めているんだ!?」
健一は叫び声を上げたが、影は答えなかった。ただ、彼の周りを取り囲み、次第にその数を増していった。彼は恐怖に震えながら、何とかして倉庫の扉を開けようと必死に試みた。
その時、突然、扉が開いた。健一は勢いよく外に飛び出し、オフィスに戻った。心臓は激しく鼓動し、冷や汗が止まらなかった。彼は何とかして落ち着こうと深呼吸を繰り返した。
「何だったんだ、今のは…」
健一は呆然としながらデスクに戻り、再び仕事に取り掛かろうとしたが、手が震えてキーボードを打つことができなかった。彼はパソコンの画面を見つめ、再び冷や汗が流れた。
画面には、彼が見たことのないファイルが開かれていた。そこには、かつてこのビルで働いていた社員たちの名簿が記されていた。彼らのほとんどが、不審な死を遂げていたことが書かれていた。
「これは…」
健一は震える手でファイルを閉じようとしたが、その瞬間、画面が突然暗くなり、再び囁き声が聞こえた。
「助けて…ここから出して…」
健一は恐怖に駆られ、パソコンの電源を切ろうとしたが、操作が効かなかった。画面には、次々と不審な画像や文字が浮かび上がり、彼の視界を埋め尽くした。
「もう限界だ…ここから出なければ…」
健一はその場から逃げ出すようにオフィスを飛び出した。エレベーターのボタンを押し、早く降りることを祈るように待った。しかし、エレベーターの扉が開いた瞬間、彼は再び凍りついた。
エレベーターの中には、先ほどの影が漂っていた。彼は後ずさりし、階段を使ってビルを降りようとしたが、足がすくんで動けなかった。影は次第に彼の方へ近づいてきた。
「やめてくれ…お願いだ…」
健一は絶望の中で呟いたが、影は止まらなかった。彼の意識は次第に遠のき、視界が暗くなっていった。
気が付くと、彼はオフィスのデスクに座っていた。周囲を見渡すと、すべてが元通りであり、先ほどの出来事が夢であったかのように思えた。しかし、パソコンの画面には、先ほどのファイルが開かれたままだった。
「これは現実なのか…」
健一は混乱しながらも、ファイルを閉じ、オフィスを出る決意を固めた。彼は荷物をまとめ、エレベーターに乗り込んだ。エレベーターの扉が閉まると、再び囁き声が耳に届いた。
「助けて…」
彼はその声を無視しようとしたが、心の中に深く刻まれていた。エレベーターが一階に到着し、扉が開くと、彼は急いで外に出た。ビルの外に出ると、冷たい夜風が彼の頬を撫でた。
「もう二度と、こんな時間まで残るものか…」
健一は心に誓い、家へと向かった。だが、その夜以来、彼はオフィスで働くたびに、背後に誰かの気配を感じるようになった。そして、深夜のオフィスでは、囁き声が聞こえてくるのだった。
「助けて…」
その声は、彼が決して忘れることのできない、恐怖の象徴として彼の心に刻まれたまま、消えることはなかった。
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