あれは、どうしても終わらせなければならない仕事があった日のことだ。普段は定時で帰れるようにしているが、その日は納期が迫っていて、やむを得ず深夜まで残業することになった。
職場は都内のオフィスビルの8階。平日はそれなりに賑やかだが、夜になるとがらんと静まり返り、廊下も薄暗く、少し不気味な雰囲気が漂っている。このビルは築年数もそこそこ経っていて、古い設備特有の異音がたまに聞こえる。だが、普段は気にせず仕事に集中していた。
同じフロアで残業している同僚も数人いたが、皆それぞれの仕事に追われていて、言葉を交わすこともなく黙々と作業をしていた。時間は既に深夜1時を過ぎ、他のフロアも完全に無人になっている頃だった。
ふと気がつくと、周りは静まり返り、オフィス全体に重苦しい空気が漂っていた。集中しようとするが、何となく嫌な予感が胸に引っかかっていた。ふと耳を澄ませると、遠くからかすかな音が聞こえてくる。最初はエアコンの音かと思ったが、どうも違う。まるで、誰かが歩く足音のように感じた。
「こんな時間に誰か来るなんてことあるのか?」と思いながらも、作業に戻ろうとしたが、どうしても気になって仕方がなかった。音は徐々に近づいてくる。オフィスのフロアはL字型のレイアウトで、向こう側の通路は見えない。しかし、確かにその方向から足音が聞こえていた。
誰かが遅れて帰ってきたのかと思い、顔を上げて廊下の方を見たが、そこには誰もいない。ただ、足音は続いている。妙にリズミカルで、カツン…カツン…と一定のテンポで響く音。冷たい汗が額に滲んだ。
「気のせいだ」と自分に言い聞かせ、画面に目を戻したが、今度は背中に冷たい視線を感じた。何もないのに、誰かがじっと見ているような感覚だ。心臓がドキドキと高鳴り、思わず後ろを振り返ったが、やはり誰もいない。
それでも気配は確かにあった。嫌な空気が漂っている中、オフィスの奥にある会議室の扉が微かに揺れたのが見えた。風の影響かもしれないが、エアコンも止まっている時間帯に、そんなことが起こるはずがない。
勇気を振り絞って椅子から立ち上がり、会議室の方へ歩み寄った。扉の前に立つと、中から小さな音が聞こえてきた。まるで、誰かが何かを引きずるような音だ。
ドアノブに手をかけると、冷たくて硬い感触が伝わってきた。恐る恐る扉を開けると、そこには薄暗い会議室が広がっていた。普段通りの光景だが、何か違和感がある。壁際に並んだ椅子が、一つだけ微妙にズレていた。まるで、誰かがそこに座っていたかのように。
怖くなって扉を閉め、デスクに戻ろうとしたその瞬間、背後から誰かの低い囁き声が聞こえた。「帰れない…まだ帰れない…」
耳元で囁かれたように感じたが、そこには誰もいない。全身が凍りつき、急いでデスクに戻ると、今度はパソコンの画面が一瞬暗転し、無数のノイズが走った。再起動させようとしたが、画面には何も映らない。じっとしていると、遠くの方から再び足音が聞こえ始めた。
冷や汗が止まらず、心臓がバクバクと音を立てていた。気持ちを落ち着けようとデスクに戻ったが、もう仕事どころではなかった。オフィスに漂う重苦しい空気がさらに濃くなり、息苦しくなってきた。
そのとき、同僚が背後から話しかけてきた。「お疲れ、まだやってたんだ?」
彼の声に、全身の緊張が一気に緩み、息を吐いた。彼も遅くまで残っていたようだが、妙に落ち着いた表情をしている。私が先ほどの出来事を話すと、彼は少し笑いながら「ここ、たまにおかしなことがあるんだよな」と言った。
「俺も前に夜遅くまで残ってた時、似たようなことがあったよ。多分、残業続きで疲れてるんだろ。気にしないほうがいいよ」
そう言われ、少しは気が楽になったが、足音や囁き声が確かに聞こえたことは忘れられなかった。
結局、その日は仕事を切り上げ、早めに帰ることにした。次の日、昼間にオフィスに戻ると、あの異様な雰囲気はまったく感じられなかった。日中のオフィスはいつものように明るく、活気があったが、ふと夜の静けさが頭をよぎった。
それ以来、どうしても遅くまで残業しなければならない日は、必ず誰かと一緒にいるようにしている。あの夜の出来事が、本当に疲れによる幻覚だったのか、それとも何かがそこにいたのかは、今でもわからない。
ただひとつ確かなのは、深夜のオフィスには、決して一人でいるべきではないということだ。
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