田中正人は、40代のサラリーマンで、妻と中学生の娘・美咲と一緒に暮らしていた。最近、美咲が元気をなくしていることが、彼の心にずっと引っかかっていた。学校のことや友人関係で悩んでいるようだったが、正人はどうしてもその話を聞き出すことができず、無力さを感じていた。
ある晩、仕事で遅くまで残業をして帰宅する途中、正人はふと見覚えのない小さなパン屋を見つけた。深夜にもかかわらず、店内からは温かな光が漏れ出ており、まるで誘われるように足を踏み入れた。普段ならそんな時間にパンを買うことはなかったが、その店には不思議な魅力があったのだ。
店内に入ると、ふんわりとしたパンの香りが正人を迎えた。棚には色とりどりのパンが美しく並べられており、どれも普通のパンとは一味違う魅力を持っているように感じられた。
「いらっしゃいませ」
店の奥から、優しそうな年配の女性が現れ、穏やかな笑顔で正人に声をかけた。「お仕事でお疲れでしょう。こちらには特別なパンが揃っていますよ。どうぞ、ゆっくりお楽しみください。」
その言葉に、正人は心が少し温かくなるのを感じた。誰かに「ゆっくり楽しんで」と言われたのは、いつ以来だろうかと思いながら、棚に並ぶパンをじっくりと見て回った。
女性が勧めてくれたパンの中で、正人の目に留まったのは「癒しのクリームパン」だった。ふんわりとした生地に包まれたクリームが、まるで心を癒してくれるような気がした。最近、元気のない美咲のことが頭をよぎり、このパンを一緒に食べたら彼女も少しは元気になるのではないかと思った。
正人は「癒しのクリームパン」とともに、いくつかのパンを選び、レジで会計を済ませた。すると、女性は再び優しい笑顔でこう言ってくれた。
「どうぞ、ゆっくりお楽しみください。」
その言葉に、正人は感謝の気持ちでいっぱいになり、パンを大事に抱えて帰路についた。
家に帰ると、妻と美咲はすでに眠っていた。正人は早速、買ってきたパンの中から「安らぎのメロンパン」と「元気のチョココロネ」を食べてみることにした。メロンパンは優しい甘さが口の中に広がり、仕事の疲れが次第に和らいでいくのを感じた。チョココロネは濃厚なチョコレートの風味が体に元気を与えてくれるようだった。
それでも、「癒しのクリームパン」だけは、美咲と一緒に食べるために大事に取っておくことにした。明日が休日で、久しぶりに親子で過ごせる時間を楽しみにしながら、正人はそのパンを冷蔵庫にしまい、ベッドに入った。
翌朝、正人は目を覚ますと、まだ眠そうな美咲に「今日は特別なパンを買ってきたんだ。お父さんと一緒に食べないか?」と声をかけた。
美咲は少し驚いたようだったが、「うん…」と頷いてリビングにやってきた。正人は冷蔵庫から「癒しのクリームパン」を取り出し、二人で一緒に食べることにした。
パンを一口かじった瞬間、柔らかな生地とクリーミーなフィリングが美咲の口の中に広がり、彼女の表情が少し明るくなったのが分かった。正人はその様子を見て、内心ほっとした。
「これ、美味しいね」と美咲が言った。彼女の目には、少しずつ元気が戻っているように見えた。
「そうだろう?これで少し元気が出たかな?」と正人が笑いながら言うと、美咲も小さく微笑んで頷いた。
「もっと食べたいな…」と美咲が言ったので、正人は「じゃあ、パン屋さんに案内するよ」と提案した。
父と娘で一緒に、昨夜訪れたパン屋を探し回ったが、確かにあった場所にあの店はなかった。あの店はどこにも見つからなかった。深夜に温かな光を放っていたはずの店が、まるで幻のように消えてしまったのだ。
美咲は少しがっかりしたようだったが、ふと顔を上げて正人に言った。「きっと、神様が特別にくれたパンなんだね。だから、もう見つからないんだよ。」
その言葉を聞いた正人は、胸が温かくなるのを感じた。もしかしたら、本当にそうかもしれない。あのパン屋は、元気をなくしていた美咲のために一晩だけ現れたのだろうか、と考えた。
その日以降、美咲は少しずつ元気を取り戻していった。学校の話を少しずつしてくれるようになり、以前のような明るさを取り戻しつつあった。あの「癒しのクリームパン」を食べた瞬間が、彼女の心を少しでも癒してくれたのだと、正人は信じていた。
あの「夜のパン屋」は二度と見つからなかったものの、その特別なパンと父娘の時間は、彼らの心に温かく残り続けている。美咲の笑顔を見るたびに、正人はあのパン屋に感謝する気持ちを忘れなかった。
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