その日、私はいつも通り残業を終え、疲れ切った体を引きずるようにして最寄りのバス停へ向かった。時計を見ると、時刻は夜の11時を回っている。終バスまであと少し。ギリギリ間に合いそうだった。
静かな夜道にポツンと佇むバス停のベンチに腰を下ろし、ぼんやりと街灯の光を眺める。人通りはほとんどなく、遠くで車のエンジン音が聞こえるだけだった。
やがて、バスが暗闇の中から滑るように現れた。ヘッドライトの光が眩しく、一瞬目を細める。停車したバスのドアが開くと、運転手が無言で前方を見据えているのが目に入った。
「……?」
何か違和感を覚えたが、疲れのせいかもしれない。私は深く考えず、バスに乗り込んだ。
車内にはまばらながらも数人の乗客がいた。
前方の座席にはスーツ姿の中年男性が座り、窓の外をじっと見つめている。その少し後ろには、ロングコートを着た女性がうつむいたままスマホを握っている。そのほかにも数人、無言で座っている姿があった。
「……結構乗ってるな」
私は適当な席に座り、深く息をついた。
バスが発進し、車内は静けさに包まれる。乗客たちは誰も話さず、それぞれの時間を過ごしているように見えた。しかし――なぜか異様なまでに静かだった。
エンジンの音とタイヤが路面を擦る音だけが響き、誰一人として動こうとしない。スマホを持つ女性も、画面をスクロールすることなく、ただじっと握りしめている。
「……?」
嫌な感覚が背中を這い上がる。なんとなく乗客の一人に目を向けた。その瞬間、心臓が跳ね上がった。
彼らは――微動だにせず、作り物のようなぎこちない笑みを浮かべていた。
目が合った乗客の顔には、まるで生命感がなかった。
ガラス玉のような瞳は焦点が合っておらず、無理やり作られたかのような笑顔が口元に貼り付いている。表情は「笑っているはず」なのに、どこかぎこちない。その歪な違和感が、じわじわと恐怖を煽った。
「……な、何これ……」
私は慌てて視線をそらし、前方の運転席を見た。運転手の背中はピクリとも動かず、まるで機械のようにハンドルを握り続けている。
もう一度、周囲の乗客を見渡す。みんな、じっと座っているだけだった。だが、その「じっとしている」こと自体が、不自然に思えてきた。まるで、人間の動きを真似ているだけの――偽りの存在。
「降りないと……!」
恐怖に駆られ、私は急いで立ち上がった。
その時――
「アァ……ォォ……カァ……」
乗客の一人が、口を開いた。
言葉のようでいて、言葉ではない。ただの音の羅列が、不気味に車内に響いた。
「ォォ……アァ……カァ……」
他の乗客たちも、一斉に口を開き、同じような意味を成さない音を発し始めた。笑顔を貼り付けたまま、無表情で、感情のない声を出している。
車内は異様な雰囲気に包まれ、私は震えながら後ずさった。
「運転手……! 降ろしてください……!」
運転手の肩に手をかけようとした瞬間――
彼が、ゆっくりと振り向いた。
そこにあったのは、同じ無機質な笑顔だった。
目は焦点が合わず、ガラス玉のように光を反射している。引きつった口元が不自然に歪み、まるで人間の笑顔を模倣しようとしているかのようだった。
「……ッ!!」
私は絶叫しそうになるのをこらえ、後ろへ飛び退いた。運転手も、乗客たちも、全員が一斉にこちらを見ていた。
その瞬間――
「こんなところに紛れ込んでしまったのか…」
静かな声が、背後から聞こえた。
私は振り向いた。
そこには、制服を着た警察官のような、しかし警備員にも見える男が立っていた。
彼は私をじっと見つめ、ため息をつきながら静かに言った。
「もう、ここには来ちゃダメだよ。」
その言葉を聞いた瞬間、視界がふっと暗転した。
気がつくと、私はバス停に立っていた。
辺りは静かで、遠くに街灯の光が見える。スマホを取り出し、時刻を確認すると――終バスが出発するよりも、数十分前の時間だった。
「……何だったんだ…?」
額の汗を拭いながら、バス停のベンチに座り込む。さっきの出来事は夢だったのか、それとも現実だったのか――
だが、一つだけ確信していることがあった。
もう、あの時間帯のバスには絶対に乗らない。
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